「善意」のサイズ感

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恐る恐る、
WordPressのダッシュボードをポチポチし始めた今日。

文字の大きさ。
どれくらいがいいのか?

色。
色々ありすぎて迷う。

余白。
ここ何より難しい。

ヘッダー。
今日知った存在。

そもそも、
どこをポチればどうなるのかすら全く分からない。

「おお…」
「なんだこれ…」

とか言いながら、
WordPress内を少し散歩していた。

そんな日の職場で、
また“その人らしい親切”を受け取った。

昔からその人は、
そもそも“大きくて目立つもの”を渡したい人だ。

物もそう。

リアクションもそう。

存在感もそう。

イベント事など、
何か集まりがあるとデジカメを持って現れる。

そして写真を撮る。

後日、
プリントアウトして配る。

時にはカレンダー仕様で(苦笑)

スマホやパソコンは、
「分からない」が口癖なのに、
“形として残すこと”にはすごく熱量がある。

もちろん悪い人じゃない。

むしろ親切な人だと思う。

ただ、
その親切の中に、
少しだけ“自己主張”を感じる時がある。

例えばりんご。

お裾分けの量じゃない。

うちの家族構成を軽く超えてくる量だ。

いや…
しかも箱!?

ジャムでも作れって量だ。

たぶん、
相手の生活サイズを分かっていないわけじゃない。

分かっている。

でも、
「これだけ渡したい」
の方が勝ってしまうんだと思う。

そしてそこには、
少しだけ自己満足も混ざる。

「渡したい」が先に来て、
「相手がどう受け取るか」が後ろになる。

だから、
善意なのに少し疲れる。

しかも、
こういう人って、
ちゃんとリアクションまで含めて受け取りたい空気がある。

俺は昔から、
この“熱量の大きい親切”が少し苦手だ。

そんな事を考えていた時、
先日、職場で真逆のとある婦人と接した。

その人は、
何もかもシンプルでさりげない。

言葉も自然。

渡し方も自然。

でも、
妙に心地良い。

不思議なくらい、
相手に気を遣わせない。

なのに、
ちゃんと温度がある。

この違いって何なんだろうと考えた。

たぶん、
前者は「自分が渡したい」が強い。

後者は、
「相手がどう受け取るか」
を先に見ている。

同じ“親切”でも、
そこが違う気がする。

人って、
こういうところに本質が出る。

最近、
そんなことをよく思う。

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